こんにちは。
国境のない粉モノ教室 Ys Table おおきもとようこ です。
いま、私が主宰している教室を紹介するときは、
「国境のない粉モノ教室 Ys Table」
とお話しています。
「国境のない」
なんてたいそうな文字が思いついたのは、
やはり幼いときを過ごしたブラジル、
そして今度は自分が子ども達を連れ渡った中国、アメリカでの
食にまつわる言葉や生活の記憶があるからです。
今回、いい機会なので、「私の粉モノ物語」を振り返ってみることにしました。
「国境のない」
こんな言葉がひらめいた意味を探っていこうと思います。
何を食べて、何を作って、この道を通ってここまで来たのか?
我ながら忘れていることも多いのですが、この機会に少しおつきあいください。
そして、一緒にクスリと笑っていただけたらうれしいです。
目次
1.地球の真裏へお引っ越し編
1.1 ある日、羽田へ行ったら父が飛んで行ってしまった
最初の食の記憶の舞台はブラジル。
残念ながら、今聞いても、父はたった1人派遣された仕事のことで、
母は生活立ち上げで、当時の記憶がほとんどないといっています。
その上、幼稚園児だった妹も記憶があいまい!
もっと早く聞いておけば良かったですね。
私だけの記憶をたどってみると、
最初に引っ越し話が出たのは、私が小学校1年生の秋。
いまでこそ、私も転勤を経験したので、大人の都合がわかるのですが(笑)、
なんといっても当時は小学生!
どういう理由で両親がそういう選択をしたのか、当時は全くわかりませんでした。
ただ、
「年が明けたら転校をするよ」
とは聞いていたので、クリスマス会でお別れ会をしてもらった写真が残っています。
それ以外は、学校は?お友達は?
本当によくわかっていませんでした(笑)
ある秋の日、家族みんなで羽田に行ったら、父が飛行機に乗って行ってしまった!
(そう、成田はなく、羽田です!)
そこから自分たちの引っ越しまで、家中段ボールだらけの中で過ごしていました。
1.2 着いたらそこは、赤土が広がる真夏の街
そして、お正月明けにその日はやってきて、私たちも羽田に。
祖父母や叔母と別れ、今度は私たちがガラスの壁の向こうへ。
祖母の着物姿を見たのはそれが最後でした。
夜便だったので、きっと夜景がきれいのだったはずですが、
身長120cmくらいだった私には窓の外はあまり見えず、
闇夜の中で揺れる機内でとても緊張していました。
当時は直行便はなく、アメリカ西海岸、そしてエクアドールのキトを経由して、
たぶん36時間以上?いやもっとをかけ、
やっと着いたのは地球の真裏、日系移民の多く住むサンパウロ。
移動中、食べ慣れない機内食はほとんど口にできず、もうおなかはぺこぺこ!
揺れる機内に寝られずへとへと。
真冬の羽田から飛び立って、やっとやっと着いたのは、赤土が広がる真夏の街でした
そして、私たちの住むことになる街は、そこからさらに南に1140キロ。
飛行機で約2時間。まだまだ先は長かったのです。
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